~靜民報(2015年4月17日)

 亡き母が高校の教師をしていた頃の事件です。私は当時高校1年生で、私の通っている高校の家庭科の教員でもありました。母子家庭でしたので、いつも勉強をしながら母の帰りを待っていました。家に帰ってくるのが午後8時頃なので遅い夕食を二人で食べます。
 ある日の夜のことです。母が帰ってきたのですが、玄関を開けた母の様子がどうも変です。後ろを振り向いて言うのです。「さあ遠慮しないで、中に入りなさい」と腕を掴まえて招き入れたのは一人の少女Aさんでした。びっくりした、と言ってもこの時ほど驚いたことはありません。私と同じ年頃と思われる美しいけど蒼白の顔の少女の表情には戸惑いと、暗い何か人生に疲れたような寂しげな印象を与えるものがありました。Aさんは私の通っている高校の家庭科の生徒で、私と同学年でした。狭い茶の間のテーブルの前にチョコンと座ってうつむいたまま何も話しません。その日は母も黙々と食事を作り、私達は話らしい話もせずに三人で夕食を食べました。母はAさんを連れて共同風呂に行って入浴を済ませ、帰ってくるとさっさと布団を3つ敷いて「さあ、寝よう」というのです。狭い官舎で、たった二間しかありませんから寝室に使える部屋は1つしかありません。Aさんと私は母を挟んで川の字で、その夜は寝たのです。次の朝、Aさんの弁当も用意して連れ立って学校に行きました。
 母は良く言えば行動力のある、悪くすると独断・破天荒な人でした。Aさんは近辺の開拓農家の娘で、冷害で収入が激減した親の困窮をみて入学したばかりの高校を退学しょうと担任であった母に放課後に相談したのでした。「親の状態をみると私が働くしかない、でも憧れて入った高校は退学したくない、死にたい気持ちだ、死んでしまって私がいなくなれば親の負担は減らせる」というのです。学校で延々とAさんを説得していたらしいのですが、ラチがあかないと思ったのか「一緒にご飯を食べようね」と言って、親に断わって自分の家に連れてきたのです。「この子はとても賢くて将来が期待できる、絶対学校をやめさせたくない、私の給料から学費を出しても良いのだが、そこまでするとルール違反になる」と言って、伝(つて)を頼ってその町の資産家の所に行って、長い交渉を重ねた結果、その資産家の名前を冠した奨学金制度を作ってAさんが高校を続けられるようにしたのです。ずいぶん周辺との軋轢(あつれき)があったようで、特に高校の校長の「前例がない」との抵抗に「校長先生がパイオニアになって下さい」と言って押し切ったそうです。
 母は退職後、私の家族と同居していましたが、折に触れ実に数多くの教え子が訪ねてきて歓談して帰ります。事件から30年ほど経ったある日曜日、私が居間に入ると母が数人の中年の女性と楽しそうに話しています。その中の一人を母が紹介し「この人が母校の高校の先生になって活躍中のAさんよ。お前覚えている?」その人もニコニコして私の顔をみています。私は「ハッ」としました。その人の優しげな顔にあの日の美しい少女の面影をみつけたのです。
 Aさんは話しました。「あの時、先生は私を抱きしめて『絶対死んだらダメ、きっと私が学校を続けられるようにしてあげる』と言ったのですよ。晩ご飯を一緒に頂いている時に、何か氷が溶けていくような安心感に包まれていました。必死に苦学して高校の教師になりました。あの時死んでたら、私の今の人生はありません」
 母が94歳で亡くなってから、もう4年経ちます。


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