メデイカル・トリビューン 続 時間の風景(2010年1月)

欠食児童
92歳の母は重度の認知症で,グループ・ホームに入所して優しいスタッフにお世話になっている。母との会話はほとんど成立しないのだが,近頃,若き日の母がおこした事件を思い出した。
私が小学校1年生の新入生になってまもなくのある日の朝のことだった。私が寝坊して居間に出てくると朝食用の食卓の横に同級生のS君がチョコンと座っていた。「さあ,S君,直樹と一緒にご飯を食べんさい」と母に急かされて私達子供は食べ始めた。ご飯を食べ終えると,私達は連れだって小学校に向かった。私は「何で自分の家にS君が朝ご飯を食べにきたのだろう」と不思議に思ったが,母はその日は何の説明もしなかった。その頃,私が通っていた小学校は北海道でも極端に未開の開拓地にあって,1年生と2年生が一緒の教室を使う複式学級で,小学校教員であった母は,私の担任でもあった。
広島市内の旧家でお嬢様育ちであった母は,27歳という若さで郵政官僚であった夫を戦争中に派遣先の旧満州国在任中に亡くし,5歳年上の兄と乳飲み子であった私を連れて原爆投下後の町広島市内の実家に「引き揚げ者」として身を寄せた。肩身が狭かったのか,北海道での開拓を志した伯父達に誘われて渡道し,道東の未開の原野に入植した。その時,私は4歳であった。開墾の手伝いに肉体労働の限界を感じた母は,女学校卒の学歴があるということで,地元の小学校の校長の懇請をうけて,代用教員となり,以降,教職を貫いて私達を育ててくれた。
この日夕方,家に帰ってきた母は,私に「S君のお父さんは結核という病気になり入院しているんじゃ,だからお金なくてご飯を食べてこれんのよ。午前中に腹が減っての,水ばかり飲んで気持ち悪くなってしまって倒れるんじゃけん,みておれん。私が持っていった弁当をあげていたんじゃけど,でも学校だと他の子達もおるから,朝,家に来てもらっておまえと一緒にご飯を食べさせてあげることにしたんよ。直樹は,S君が朝うちに来てご飯を食べていることを学校の友達なんかにしゃべったらいけんよ」と,有無を言わさない厳しい顔で言った。

校長の叱責
何日か,そんな日が続いた。S君が我が家に朝来るのがあたりまえのようになり,私とS君とはとても仲良くなった。ところがある日,突然S君が来なくなった。不思議に思った私は母に「S君は今日は来ないの?」と聞いた。うつむいて黙々とご飯を食べていた母が,私の言葉に反応してハラハラと涙を流し始め,そして私をかき抱いて,ついには号泣し始めた。しきりと「くやしい,くやしい」と言い,私に「おかあさんには,力がないんじゃ!お前,大きくなったら偉うなって,こんな小さな子供が餓死しそうになる世の中を,何とかして欲しいんよ」と言ったのであった。
S君に朝ご飯を食べさせていることが小学校の校長先生の知るところとなり,呼び出しを受けた母は校長先生に「吉山先生,子供にご飯を食べさせるのは親の義務ですよ。先生が日本中のすべての欠食児童にご飯を食べさせることができますか?それに先生のお家だってお子さんに食べさせるのが精一杯の安月給でしょう?」と叱られ,厳しくよその子供にご飯を食べさせることを止めるように指導されたのであった。母はムキになって反論したようであるが,最後は「職務命令」のようなことになったらしい。この校長先生は母を代用教員として登用していただいた方で,立派な人格者であり,子供を二人抱えた寡婦の経済状態を考え,一本気の若い母を大人として温かくたしなめてくれたのであろう。すべて,私が大人になってから母から聞いた話であった。
当時,私達親子が居住していた北海道の開拓地は全くの新開地で,全国から移住してきた人達が農家として開墾に悪戦苦闘し,そこから一定の畑作収入が得られるようになるまで何年もかかるので,ほとんど無収入の状態がしばらく続くのであった。伯父達のように蓄えを準備して来た人もいるにはいたが,多くは最初から経済的に困窮していた人達が多かった。
その後,しばらくして北海道の僻地校にもガリオアエロア資金による学校給食が開始となり,これを誰よりも喜んだのは母であった。

「自分さえ良ければ病」
今の世は飽食の時代である。「欠食児童」は,いわば死語であるかも知れない。
ご飯を食べてこない,と言うと,朝から「個食」の環境に置かれた子供達が,親の「しつけ」の欠如のつけ回しで,勝手に食べないで学校に登校して来るのである。
しかし,子供に限らず,今の時代の我々が等しく感じている,この激しい「飢餓感」は,何なのだろうか?今の世の中は,何かが間違っているに違いない。 浜矩子さんというエコノミスト(同志社大学教授)が,最近刊の総合文芸誌に,この「自分さえ良ければ病」がわが国で蔓延している。という言葉で綴っている。 今の日本は,「悪しき」競争原理の行き過ぎで,日本の社会が古来持っていた「地域社会の助け合い」精神まで浸食しつくしたかのようにみえる。企業経営は幾分持ち直したものの労働者,特に若者の世界の格差が拡大している。人々の労働のインセンティブ(誘因)ためには,誰もがいつからでもチャレンジする機会が均等に与えられ,公正な評価がなされなければならなかったのであるが,「自分さえ良ければ病」の蔓延は経済強者の力の論理だけを推し進めることになり,社会的救済の仕組みは作られてこなかった。
今こそ,「他者のために働いて幸せを感じられる」日本古来の社会システムを再構築し,「自分さえ良ければ病」と闘わねば,わが国は滅んでいくであろう。

その後の母
その後,母は正規の教員資格をもちたい,と勉学を再開し,仕事と子育てを並行しながら大層苦労して通信教育課程で大学を卒業し教員免許を取得した。私が東京の大学に進学してから,母は高等学校での教育活動が認められて日本で初めての公立高等学校の女性校長となった。

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