(上越地域医療センター病院 院内報より)2002年2月

クラーク博士は北海道大学の前身である札幌農学校に明治9年、年齢50歳で赴任した米国人で、日本人なら誰でも知っています。しかし彼はアメリカの一番歴史の古い有名な農業大学(マサチューセッツ農科大学)の学長の職を捨てて未知の東洋の小国の、しかも最果ての寒冷地にわずかな数の学生を教えるために赴任したのです。明治政府の高官が農業指導の人材を頼みに訪米した時、その使節団と会ったクラーク博士の心の中で何か「はじける」ものがあったのでしょう、自らが日本へ赴任する決意をしたのでした。今の日本の状況に例えるならば、東大の総長が突然辞任してアフガニスタンの僻地に新設する学校に赴任するようなものです。

明治10年4月16日、8ヶ月間の勤務の後、別れ難く見送る1期性の学生達に一声高く「Boys be ambitious! like this old man」と叫び、馬に一鞭くれて立ち去りました。この言葉の前半の部分が後世流布された「青年よ、大志を抱け」という言葉です。本当は ambitiousは「野心」という意味ですが、なにか悪いイメージを与え一般受けしないのでこれを避けて「大志」と和訳したのでしょう。
私が感銘を受けたのは、後半の言葉 like this old man です。
この後半の語句は後世の人はほとんど知りません。自分のことを「老人」と言っている意味が掴みかねたのです。クラークはまさに「この老人のように野心をもて」と言ったのです。
帰米後クラークは数々の事業に挑戦し、そのいずれにも成功しなかったようですが、大変なエネルギーを爆発させた後半生でした。彼の人生の転換点は札幌農学校への赴任だったのです。野心家だったのです。私は聖人君子扱いされる傾向のあるクラーク像よりも、この野心的なクラークの姿が何とも魅力的に思えます。

札幌農学校の卒業生は、広く世界で活躍する人材を輩出しました。入学生は没落士族の師弟でしたが、根本にあった武士道精神がキリスト教のピューリタニズムに見事に共鳴して明治日本=新生日本の精神的原動力となる優れた人材を生み出した、と思います。クラークの暗い情熱が東洋の純心な少年達の魂に火をつけたのです。私は4年前、北大に進学した長男の蔵書の中にこのクラークの「like this old man」をみつけて伊豆大島の離島診療所に赴任する決意をしました。

私達の日本は今、未曾有の困難に遭遇しつつあります。日本に現れているのは、経済的破壊・工場生産の空洞化ばかりか、農業の衰退、漁獲高の激減もあり破滅的な状態です。しかし問題はなんといっても文化的衰退が問題です。私達は社会的弱者を地域社会の仕組みの中で守り、保護し、支えてきた文化をもっていました。また、社会的悪を淘汰し矯正してきました。しかし今の日本は、特に東京を始めとする大都会ほど、このような美俗が破壊し尽くされているように思えます。 いっぽう、私が伊豆大島で見たものは、とても心豊かな環境で暮らす老人達でした。隣同士が親身になって世話しあう社会の中で生きているのです。この感動的な情景は、私の心を揺さぶりました。
診療所には首都圏から赴任した若い女性看護師さん達が数多くいます.そんな彼女達は,伊豆大島で老人の死に立ち会う時、家族や地域と共に長くその患者さんを看てきたためもあってか、例外なく手放しでポロポロ泣くのです。その時の気持ちは、単純に愛するものの死を悲しむ感情ばかりではありません。密着した時間を共有すると,死がこれほど厳粛なものである、という事実への魂を揺さぶる感動があるのです。この驚愕は彼女達には一生、かけがえのない思い出として強く心に残ることでしょう。
赤い目をして、
「先生! 私、看護婦になって良かった、と思ったよ!」

ダワーという人が書いた「敗北を抱きしめて」という本が静かに読まれています。終戦後の混乱と貧困にいかにわれわれ日本人が勇敢に立ち向かい、お互いに助け合いながら奇跡の復興を成し遂げた経緯が、詳細に記述されています。そのスピリットは、私達が戦後の長い時間の中で忘れ捨て去ってきたものの中にあるのです。
病院で働くことは、このことを気づかせてくれる大勢の老人と会える、ということです。
私達の毎日は、素晴らしい、と思いませんか。

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