(上越地域医療センター病院 院内報より)2001年9月

私達病院で働く職業の人間は、「やさしさ」を売り物にする商売です。
私は、この真実を母の一番下の妹(母は広島市出身で、なんと12人兄妹です!)である叔母から教えられました。陽性であけっぴろげで誰とでも友達になる、困っている人がいると助けずにはおられない性格で誰からも好かれる人でした。

医学生になって叔母の住む広島を久方ぶりに訪れたのは、昭和40年でした。叔母は30歳台後半で二人の娘を持った主婦、陽性で輝くように美しい人でした。母子家庭に育った私を不憫がって学生時代にはずいぶん面倒をみて頂きました。
「直ちゃん(私のこと)医学部に入ってお母さん、さぞかし喜んでいるじゃろうね。医者になったら病人さんは病で苦しんでいるんじゃから、普通の人以上に優しくしてやるんよ」

この叔母については、面白い話がいくつかあります。
ある日、銀行勤めの夫(叔父)が帰宅すると見知らぬお女性客が家におり、叔母がさかんに接待しています。身なりが貧しく、叔母の友達の中では今まで見かけなかった人ですが、親しくお話しているのです。お客が夕食を食べて帰った後に叔父が「あの人は、おまえの友達かいね」と訊ねると叔母は「いや、今日始めて会った人なんよ。お使いに出たら道の向うから暗い顔をした人が歩いて来たので、『おたくさん、どうなさったかいの?』と聞いたのよね。話を聞くとね、ご家族の問題で悩んどってのようで、立ち話ではなんだから、落ち着いて身の上話を聞いてあげようと思って家にあがってもらったの。あら、あら、お名前をお聞きするのを忘れたわー。確か○○町のほうだと言っとたわ。『もう死にたい』とおっしゃとってんよ。心配だのー。電話番号ぐらい聞いておけばよかった。」 叔父は、長い叔母との結婚生活で叔母のこのような世話焼き事件は日常茶飯事でしたが、さすがにこの話にはあきれたそうです。叔母が私の家に遊びに来た時にときに言いました「叔父さんがの、『お前、人の世話焼きも好い加減にしとけや。程というものがあるじゃろうが』というての、いつも怒られとんのよ、アハハ」

私の家に遊びに来たその時も、私の幼い息子達を喜ばせようと山のようにお土産をもってきたのですが、東海道新幹線で隣り合った人と意気投合して話に夢中になってしまい、下車駅に気がついてあわてて飛び降りたら自分のバッグはもとより抱えきれないほどの土産物のすべてを網棚に置き忘れ改札口を出てきたのです。迎えに行った私の家内が「あら、叔母さん、お荷物はないのですか?」と聞くと「ほい、しまった。全部新幹線に忘れてきよったわ。後で直ちゃんに取りにいってもらってきてちょうだい。」当時私が住んでいたのは三島市ですよ。新幹線の遺失物収容所は東京駅ですから、夜になってみやげ物に目が眩んだ下の息子を連れて「こだま」で片道1時間、「山のような」荷物を東京駅までとりに行きました。あまりの荷物の多さに私の言葉を担当駅員が信用せず、内容確認のための電話を私の家にいる叔母に入れたことを覚えています。

母の兄妹の伯父伯母の半分はすでに死去しています。この叔母も7年前に67歳で急死しました。葬儀は専業主婦の「普通のオバサン」にしては参列する人がお寺の外にまであふれて、壮大なものでした。そして誰もが悲しんで泣いていて、如何に叔母が大勢の人に愛されていた人か、とても感動的なシーンでした。

「直ちゃん、人はの、自分のことではがんばれんのにね、他人のことだとできるんよ。人は助け合わんとの」今でも叔母の言葉は耳から離れません。

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