(山形県酒田市の上田診療所(矢島恭一先生)の院内報の2003年の新年号の記事に寄稿したもの、
   文中に出てくる杉山医師は虎ノ門病院退職後、飛島の離島医療に従事している当時60歳代の方)

新年おめでとうございます。 21世紀も2年目を迎え今年も波乱の年になりそうですが、せいぜい身の回りだけでも楽しい世界をつくりましょう。 さて私達病院で働く職業の人間は、「やさしさ」を売り物にする商売です。こんな簡単な真実を、私たちはともすれば忘れがちです。私は、昨年6月まで伊豆大島の離島の町立診療所に勤務していました。離島に赴任したのは私なりの「やさしさ」探しでした。「どうして大島(なんか)に行くんだ」と多くの人に怪訝な表情をされました。その気持ちをストレートに相手にお伝えする言葉がなく、とまどったことを覚えています。
上田診療所の「診療所だより」を読ませて頂きましたら、第152号(昨年の1月号)に飛島の診療所に赴任された杉山誠先生のお話が出ていました。杉山先生は赴任の動機はなんとなく私の気持ちと共通するようで感激しました。紙面に出ているお写真をみて「やさしい」お顔だな、と思いました。しかし、なんといっても元祖離島医者は小笠原にいたことがある矢島恭一先生ですが、その理由も同じだったのでしょうね。

私が医者になった原点は、北海道の僻地(開拓村)で育った生い立ちにあるのですが、母の教えが表題の「傘になれよと」です。他人に対する「優しさ」ということです。森進一が歌った川内康範作詞の「おふくろさん」の一節で、なんだかこの歌を聴くと私はすぐ目頭が熱くなるのです(47歳で若死した森進一のお母さんの出身地は下甑島という鹿児島の離島でした)。私の母は、数年前から徐々に痴呆が始まり、この7月には進行乳癌が発見されました。
母は、大正7年1月2日、広島市に生まれました。母の実家は「築地(ついじ)」という屋号をもった広島市内の旧家でその12人兄妹の四女でした。昔の高等女学校を卒業し、短い家事見習い期間の後に私の父と19歳で結婚しました。結婚3年後の22歳に兄を出産し、それから5年後の27歳で私を出産しています。平凡な主婦で一生を終わるはずが、父が郵政省から赴任した満州国で戦中に過労で突然死してしいまい(私が生まれる前です!)、母は27歳にして二人の男の子を抱える未亡人となりました。それから終戦を外地で迎え、艱難辛苦の引き揚げ、極度の栄養失調になった乳飲み子の私、そして帰った街が原爆投下後の荒廃した広島市、実家の農地改革をめぐる紛争、昭和24年伯父達と北海道の開拓地への移住、聞きしに勝る原始のままの未開の地で生活を立てることが困難を極めたので、母は薦める人がいて小学校の代用教員になりました。
これからが波乱万丈なのですが、なんと通信教育で教員資格を取得した母は、小学校から中学校、そして高等学校の教員へと変わり、最後は日本で初めての公立高等学校の女性校長となりました。なんとも言えないガンバリですが、私も鍵っ子のはしりで、今考えるとこんなに放置されてよくグレないで育ったものです。

ただ母のことで今も感謝しているのは、「世のため、人のため、に(役立つ人に)なれ」という厳しい教育を受けたことです。自分が丸裸になっても困っている人がいれば「施し」をすべきだ、という考え方です。幼い頃は不正なことをすると烈火のようにおこられました。が、叱り過ぎたかなと思ったのか、その後に私を強く抱きしめて、「あんたを叱ったのは自分を犠牲にしても人のために働ける強い人間になって欲しいからなのよ」と自分も泣くのです。これが私の「傘になれよ、と」でした。

私も医師となって医療の分野で医師や看護婦の教育に長く関与してきましたが、医療は究極のところ、強く、かつ優しい心をもった人材を求めています。受験勉の勝者というだけで医学部に入学して欲しくないし、もちろん札束でほっぺたを叩くようにしてドラ息子(娘?)を医者にして欲しくない。人としての悲しみや痛みが分かち合える人が医者や看護婦になって欲しい。これが今の私の切実な願いです。

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